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2013年11月3日の再公開にむけて、着々と修復が進む慶長使節船「サン・ファン・バウティスタ」。(宮城県慶長使節船ミュージアム蔵)

伝説のテクノロジー

伊達政宗が建造した船の復元に腕を振るった生粋の船大工

400年前に建造された木造様式帆船「サン・ファン・バウティスタ号」の復元に20年前に参加。 その船が3・11東日本大震災直後の暴風雨によって大きな被害を受けた後は、修復に関わっている。
木造船への需要がほとんどなくなった今、その技術をいかに次代に継承していくか。
大きな問題に直面しながらも芳賀さんは、今日も黙々と木槌を振るう。

船大工 芳賀 亨

400年ぶりによみがえった伊達政宗の夢

 ガツン、ガツン、ガツン…。

 鈍い槌音が反響する。船体を構成するスギ板とスギ板との間のわずか1ミリメートルほどの隙間に縄状に編んだヒノキの樹皮を充填していく「ハダ打ち」と呼ばれる作業だ。「ポンクズ」と呼ぶ木槌でノミをたたき、わずかな隙間に4本も5本も樹皮を入れ込んでゆく。そうして板の隙間から水が船体に入るのを防ぐのである。それなら隙間ができないように最初から板と板を密着させて取り付ければいいと思うかもしれない。しかし密着させすぎると板がうまく納まらないし、板が水を含んで膨張すると船体に歪みが出てしまうのだ。

 芳賀亨さんは、16歳で船大工になったときからずっと、この「ハダ打ち」の作業を行ってきた。そして400年前の船づくりでも、「ハダ打ち」の作業は行われたのだった。

 1613(慶長18)年、仙台藩主伊達政宗はノビスパニア(メキシコ)との交易の許可を求めて、イスパニア(スペイン)国王とローマ法王のもとに使節団を派遣することにした。「慶長遣欧使節」である。

 このとき使節団を運ぶために建造された船が「サン・ファン・バウティスタ号」であった。

 当時のことを記録した古文書によれば、大工800人、鍛冶600人、雑役3,000人により、約45日間で建造されたという。残念ながらノビスパニアとの交易という目的は幕府のキリスト教弾圧政策の影響などもあって果たせなかったが、「黒船」と呼ばれたサン・ファン号は日本で初めて太平洋を2往復もする偉業を成し遂げ、後世にその名を残したのだった。

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