伝説のテクノロジー
焼物の実用の美を求めて
やちむんやちゃー 作陶家・松田米司さん
やちむんの「故郷」と「聖地」
琉球王朝時代、沖縄では各地で焼物がつくられていた。しかし1600年代の末、当時の琉球王は焼物産業を振興するため、各地にいた陶工を壺屋地域に集めた。現在、那覇市内にある壺屋には今でも「やちむん通り」沿いに多くの工房や焼物店が軒を連ねている。
しかし1970年代になると、焼物を焼くときに出る煙が公害問題として取り上げられ、那覇市内では薪を焚く登り窯が禁止されることになった。そのため多くの陶工たちはガス窯に転換せざるを得なくなったが、そこに救いの手を差し伸べたのが読谷村だった。村に返還された元米軍用地にやちむんの窯元を集め、「やちむんの里」とする構想を立ち上げたのだ。これを機に読谷村に多くの陶工が移り、工房を開いた。現在、その数は50を超す。今は「やちむんの故郷」と呼ばれる壺屋に対し、読谷は「やちむんの聖地」と呼ばれている。
1992年、長い修業を終えた松田さんもこの読谷の地に自らの工房を構えることになった。そして陶工仲間の宮城正享、與那原正守、松田共司(米司さんの双子の弟)の各氏とともに共同の登り窯をつくった。それが北窯だ。4人の親方たちがそれぞれの工房でつくったものは、この共同窯で焼く。
「電気やガスを使うことを否定するつもりはありません。でも、私たちは土づくりから始まり、焼きまでの一連の作業を仲間たちとともに共同で力を合わせてやることを大事にしています。みんなで段取りを考え、協力し合って一連の作業をする。そういうことが文化をつくるのだと思います。薪に琉球松を使っているのは、松脂が入っているので火力が強いからです。ほかの木とは火の立ち上がり方が違います。でも最近は松くい虫の被害が広がり、だんだん松が少なくなってきています。そのため最近は読谷の製材所が輸入している米松やラワンなども使っていますが、本当は全部松がいいのです」