ハリマ化成グループ

伝説のテクノロジー

燻を担当するのはこの道20数年の神宮寺秀哉さん。丁寧にムラなく燻すのに1日以上はかかる。自然な色に仕上がるのは熟練の職人のなせる技だ。

伝説のテクノロジー

焼物の実用の美を求めて

琉球王朝時代から沖縄に伝わる焼物。沖縄最大の登り窯を構え、伝統的な技法にこだわりながら、使いやすい実用の器をつくる松田米司さん。海外でも評価される現代の名工の1人である。

やちむんやちゃー
作陶家・松田米司さん

荘厳な雰囲気の火入れ式

 時刻は夜の10時半を過ぎていた。朝の8時ごろから作業を始めてすでに14時間以上になる。

 10時35分、登り窯の焚口にくべられた薪の間に入れた新聞紙に火がつけられた。しばらくするとパチパチと音を立てて太い薪に火が移り勢いよく炎が燃え立つ。丸太状の太い薪はすべて、琉球松だ。やがて火勢が増し、周りに立つ人々の顔が赤く照らし出されるようになると、火入れの儀式が始まる。

登り窯の温度は1270℃。13ある焼成室(袋)は、その温度に耐える土とレンガで塞ぐ。下から順に1番手、2番手と呼び、最上段は13番手となる。1番手は灰かぶりと呼ばれる袋で白物と呼ばれる陶器を焼く。

 1人ずつ焚口の前に出て、盃にお神酒が注がれる。そのお神酒を炎にかけた後、盃に口をつける。親方や弟子たちだけではなくその場に立ち会った人が全員、その儀式に参加する。この日は総勢約25人。お神酒に使われたのは日本酒ではなく泡盛だ。

 沖縄県読谷村。やちむんの里でもひときわ目を引く北窯では毎年5回、こうした火入れ式が行われる。

 沖縄では、焼物のことを、やちむんと言う。松田米司さんは高校卒業後、そのやちむんの世界に身を投じた。沖縄が日本に返還された翌年の1973年のことである。

 太平洋戦争末期、沖縄では地上戦が展開され、大勢の人が犠牲になった。そして1952年、サンフランシスコ講和条約が発効し日本が主権を回復した後も、沖縄は米軍の施政権下に置かれた。日本本土から沖縄に行くときにはパスポートが必要だったのだ。その沖縄が日本に返還されることになったとき、松田青年は自らのアイデンティティがどこにあるのか、深く考えた。

 自分は日本人なのか、アメリカ人なのか、それとも沖縄人なのか…。悩み考える中で松田さんは改めて沖縄の文化や歴史について学び、1600年代の琉球王朝時代から連綿と続くやちむんのことを知った。「沖縄の人間として、自分も焼物をやってみようと思うようになりました。『焼物では生活できない』『早くちゃんとした仕事を見つけなさい』、ほとんどの人たちからそう言われました。でも、高校を卒業する前に、気持ちはもう固まっていました」

 こうして松田さんは、高校卒業と同時に那覇市にある石嶺窯に入って修業を積んだ。

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