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伝説のテクノロジー
黒松の美を輝かせる精緻な技巧
指物師
下田脂松細工職人・ 嶋﨑繁明さん
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松は扱いにくい
静岡県下田の名が歴史に大きく登場するのは、幕末のことである。1853(嘉永6)年、ペリー率いる米国東インド艦隊が浦賀沖に来航。翌1854年、再び来航した米国艦隊は幕府と日米和親条約(神奈川条約)を結び、下田と箱館(函館)の2つの港が開港された。200年以上続いた鎖国がついに解かれたのである。
当時、下田は関西と関東をつなぐ中継点として栄えた全国でも有数の港町であった。と同時に伊豆は山林資源も豊かで、良質な木材が切り出され、建築や建具などの材として使われていた。そのため下田には、たんすや長持、箱火鉢などを、板を差し合わせてつくる木工品専門職人の指物師(さしものし)が多くいた。そして彼らの中には、江戸指物の伝統技術を習得するものも少なくなかった。
嶋﨑繁明さんの祖父・嶋﨑秋吉さんもそうしたひとりであった。
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土台のあて板は、二代目が使っていたもの。桜の板で昭和25年につくられた。
「祖父は三宅島や御蔵島の桑を使って仕事をしていました。でも、下田ではいい黒松が採れるので、松を使って欲しいという注文も来ます。それで黒松を使って硯箱や盆などもつくるようになったのです」
と嶋﨑繁明さんが語る。
18歳のとき指物師になった嶋﨑さんは、父・敏夫さんの下で修業した。敏夫さんは黒松細工に本格的に取り組んでいて、嶋﨑さんもその影響を強く受けた。
「針葉樹の松は、夏と冬で木目に大きな差ができます。だから逆目を削るのがすごく難しいんです。しかも松はもともとねじれて生えているので、切ったり削ったりした後でも狂いやすい木です。脂が強いと鉋が動かなくなってしまうこともあります」
つまり松は、指物の材としては扱いにくいということだ。
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作業は道具の状態を確認してから。「手入れを怠ると必ず失敗する」。