伝説のテクノロジー
日本庭園文化を世界に伝えるために
小杉造園株式会社・小杉左岐さん
減り続ける日本庭園
小杉造園は、延宝元年(1673年)に現在の東京都世田谷区北沢で農家を営むようになったのが起源とされている。やがて大正時代に入ると農業に加えて植木の生産業も営むようになり、昭和初期からは植木職として発展。戦前からは造園業にも参入した。そして植木職として3代目となる小杉さんが1978年に法人化した。その当時の従業員数は40名ほど。現在は100名近くにまで増えている。
当時、北沢周辺には佐藤栄作元首相の私邸をはじめ、政財界人や芸能人の豪邸が建ち並んでいた。小杉造園はそうした豪邸の庭の造営や管理を手広く手掛け、社業を発展させていった。もちろんそれらの豪邸には、贅を尽くした日本庭園が設えられたものもあった。
だが、近年、そうした豪邸は次から次へと姿を消している。相続税を払うため、土地を分筆したり手放したりする例が多いからだ。その結果、日本庭園の数も急減していった。それは小杉造園にとって、単に仕事が減るだけにとどまらない打撃を与えることになった。
「日本庭園を造る技術、技能は、現場でのOJTで教えていくしかありません。しかし、日本庭園が減ってきたため、OJT教育をできる機会も少なくなってしまっているのです」
日本文化のひとつであり、侘び、寂びの世界である日本庭園を造営する技術、技能をこのままでは次の世代に伝えられなくなってしまう。小杉さんは日ごとにそんな思いを強くしていた。
しかもバブル崩壊後は、日本庭園に限らず造園や植栽などの仕事は減っていった。そこで小杉さんは、マンションの庭や植栽の維持管理などに手を広げる一方で、海外にも目を向けてきた。数年前には海外事業部を設けたほどだ。今、この事業部には、ドイツ人や韓国人の社員もいる。
海外に目を向けるひとつのきっかけとなったのは、技能五輪国際大会だった。世界中の若手技術者や技能者が集って腕を競い合うこの場に小杉造園が初めて選手を送り込んだのは、1999年の第35回モントリオール大会だった。もちろん参加した種目は、造園である。
だが、技能五輪自体、もともとスペインで始まったものだし、欧州は造園でも長い歴史と伝統がある。世界の壁は予想以上に高く、険しかった。第35回大会では4位入賞、続く第36回大会(2001年韓国ソウル)でも7位入賞を果たしたが以降は国内予選を突破することもできなかった。