次代への羅針盤
新たなビジョンを生み、育む力。まさに今、それが問われている。
優れた人材を社会や産業界に送り出す。
それこそが大学が社会になし得る最大の貢献だと榊裕之学長は明言する。
次の時代が求める技術者とは、社会が必要とする21世紀のリーダーとは、
企業と大学のあるべき関係とは…。
今なお研究を続け、問題が解けた時にはわくわくするという榊氏が、
次代への羅針盤を指し示す。
Hiroyuki Sakaki
榊 裕之
豊田工業大学学長/大学院工学研究科教授 工学博士
T型から士(さむらい)型へ 新たな技術者像を求めて
私が東京大学に入学した頃ですから、約50年前のことですが、工学の分野には、“T型”人材が必要と言われていました。Tは、テクノロジーの頭文字ですが、縦棒は深い専門性を示し、横棒は幅広い知識を示し、両者を備えた人材が不可欠との意味でした。
私は、これからの工学や技術の発展には、“T型”人材では十分でなく、これに、上向きの突起や底部の横棒を加えた“士(さむらい)型”の人材育成を目指そうと言っています。
まず、上向きの突起とは、次代に向け、新たなものを創り出す意欲と能力のことです。これがなければ、工学者とはいえません。
他方、底部に置いた横棒は、学術や技術の基礎・基盤のことです。専門性を深めると、やがては多数の分野に通底する学術の共通基盤に達します。この共通基盤を通じて、分野間の壁を越えて対話する力を養うことが大切なのです。
たとえば、潤滑材と液晶機器は、まったく無縁なテーマと思えますが、いずれも分子間の量子的作用が特性を決めており、分子レベルでは、関連する面が少なくありません。
複数分野の知識を有機的につなぐには、各分野の基盤に立ち戻り、基礎的概念を用いて学際的に対話をすること、すなわち、“士”の底の横棒の育成が大切なのです。
豊田工大では、学生たちが、次代を切り拓く創造への意欲を高め、自分の進むべき方向を見出すヒントとなるように、「イノベーターズ・プラザ t-COMPASS」と呼ぶ施設を設けました。ここは、過去150年に技術や科学を通じ世の中を変えてきたInnovatorたちに注目し、彼らの考え方や生き方に触れることで、学生が人生航路を進む際の羅針盤(Compass)にして欲しいとの思いでつくったものです。
特に、本学に縁の深い発明家の豊田佐吉翁やトヨタ自動車を創業した豊田喜一郎氏の考え方を詳しく紹介しています。たとえば、佐吉翁は「これまでの人生は、波乱曲折、悪戦苦闘、多くは失敗の連続となす」と言っています。この言葉には、織機の発明と改良を優先した佐吉翁が、43歳のとき、採算重視の共同経営者により会社を追われた体験への思いが盛り込まれています。しかし、佐吉翁は、この事件にも挫けず、再起し、発明を続け、世界一の織機を完成させています。t-COMPASSでは、そのときの辞職届や特許文書なども示し、わが国の技術と産業が未熟な時代に、困難を克服した人たちの志や生き方を伝えようとしているのです。
昨今、激しい国際競争の中で、わが国は厳しい状況にありますが、佐吉翁の時代に比べれば、遥かに恵まれた状況にあるともいえます。この程度で弱音を吐いてもらっては困るというのが私の思いです。